立ち読みコーナー

小説「イルカのキリー」サンプル

(400字詰め原稿用紙 約470枚) ※HTML版

 お母さんイルカのアンナと、その子供のキリーは、いつもの入り江でうとうととしていました。いつもどおり昼のあいだじゅう、ずっと島のまわりを泳ぎ続けたり飛び跳ねたりしてばかりいましたので、二匹ともだいぶ疲れていました。とくにお母さんイルカの方は、子供のキリーにどういうふうにいろんなことを自然に覚えこませるかに気をくばりながら、そのうえさらに自分と合わせて二匹分の食べ物を探したりとかいったことをしなければならなかったのですから、なおのことでした。しばらくすると、子供のキリーはすっかり寝入ってしまったようで、ときどき空気を吸いにすっと水面に浮きあがるようすは、穏やかな月明かりの下ではちょっと不思議に見えました。

 でもお母さんイルカは、まだ寝入るわけにはいきませんでした。海には、イルカを襲うシャチやサメのような生き物がたくさんいたからです。さすがに夜になるとサメはやってきませんでしたから、いくらかは安心でしたが、シャチの方は昼だろうと夜だろうとお構いなしに海をうろついていましたから、気を抜くことはできませんでした。でも彼女が怯えているものは、それだけではありませんでした。

 これは、彼女がキリーを生んでからしばしば感じるようになったことなのですが、ごく普通の静かで明るい昼のさなかに、ときおり不意にあたりがすっと、まるで海よりも深いところから生まれたかのようなものに包まれるかのように暗くなって、目の前の小さな自分の子供ごとすべてを呑み込みんでいくかのような感じにとらわれることがあったのです。夜になるともちろん、それ以上暗くなることはありませんでしたから、少しは安心でしたが、それでもやはりときどき、その暗いものがキリーに襲いかかってくるような感じに、びくっと飛び起きたりするのでした。そしてそうしたことが起きたあとしばらくは、何かにじっと見つめられているような感じがして、からだが小さくなったように感じてしまうのでした。ですから彼女は、たとえどれだけそのからだが疲れきっていたとしても、どうしても静かに眠ることができなかったのでした。

 その〈歌〉が聞こえてきたのは、彼女がまたそういったふうに飛び起きて、すぐそばにいる自分の子供が大丈夫なのを知って安心した時でした。

 こんなに浅いところでも聞こえるのだから、きっとだいぶ近くにいるのよね、と彼女は思いました。普通ならこんなに浅いところにいたら、風と波のせいでとぎれとぎれにしか聞こえないものね。

 彼女は本当には、もうすぐにでも泳ぎ出していって、あの大きなからだを間近に眺めながら、彼らの歌う〈歌〉の響きにすべてをゆだねてしまいたいところでした。もっと若い頃だったならば、たぶん間違いなくそうしていたことでしょう。でも今の彼女にはキリーがいました。キリーを一匹だけにするわけにはいきませんでしたし、だいいち彼らを探し出すのには、今の二匹は少し疲れすぎていました。ですから彼女は、ただ彼らの〈歌〉を聞くだけにすることにしました。

 彼女は〈歌〉に静かに聞き入りながら、ずっとあの大きなからだのことを想い続けていました。そして初めて彼らに出会った頃の、まだまだ小さかった自分と、目の前の自分の子供とを重ね合わせて呟きました。

 私とこの子と、いったいどこがどう違うというのだろう? この世界のことで私が知っていることなんて、ほんのわずかなのだし……。だいたい、どうして彼らが〈歌〉を歌うのかさえ、未だにわからないのだもの。

 彼らとは言葉が通じませんでした。

 でもすぐそばにいて一緒に並んで泳いだり、その大きなからだから聞こえてくるからだの音に自分のからだをゆだねているだけでもとても愉しいことでしたし、何よりも彼らの歌う〈歌〉には、いつも呆然となって、そして無性に嬉しくなってしまうのでした。それは自分たちイルカには到底できないことだったからです。彼女は大きくなるにつれて、たぶんきっとこれは、ただ単にからだが大きいだけではできないことなんだろうな、と想うようになっていましたが、それ以上のことは未だにまったくわかりませんでした。

 青白い月が、水の中にいる二匹のからだを、ぼんやりと淡い緑色に照らし出していました。クジラはたった今も世界を震わせていました。すぐそばにいるキリーのからだや、あたりにいくつも転がっているごつごつした岩たちや、海藻にしがみつく貝たちやカニたちも、同じようにその歌に震えていました。彼女には、それをなしとげているのがたった一匹の生き物に過ぎないということが、とても愉快なことに思えました。すぐそばで寝ているキリーのからだの向こうには、たぶん、あの突然まわりの景色を食い破って襲いかかってくる暗闇があるはずでしたが、クジラの歌は、その暗闇さえも同じように震わせているかのようでした。そのうちにまるですべてのものがきゅっとひとつに小さくまとまっていくかのような感じにとらわれた彼女は、小さい頃からしているのと同じ身ぶるいを、ぷるっとしました。

 すると、すぐそばで眠っていたキリーが、その身ぶるいの音に気が付いて目を覚ましました。そして、あたりじゅうに響いている、不思議な音の連なりに気が付いて彼女にたずねました。

 「ねぇ、あの音はなあに?」

 〈歌〉に静かに聴き入っていた彼女は、ちょっとムッとして、さぁこいつどうしてやろうかしら、と思いました。黙って聴かせておいてくれればいいのに……。けれども彼女は思い直して、そしてちょっと考え込んでから言いました。

 「あれは音じゃないのよ。〈歌〉なの」

 「〈歌〉……って?」キリーはまだ目のさめやらない、ぼんやりしたようすで聞きました。

 「私たちよりも、ずっとずっとからだの大きな〈クジラ〉という生き物がいてね、その生き物がいろんな想いを込めて出している音なのよ。さぁ、聴いてごらんなさい」

 〈歌〉はさっきから低い方の音を、行ったり来たりしていました。その音は、風にかき混ぜられて複雑にうごめく水のせいで、ときどき大きくなったり小さくなったりしていました。

 「何か、こう、変なの……」

 キリーは、ちょっと困ったようすで言いました。

 それを聞いて彼女は、ああそうだわ、と思いました。ずっと今まで同じイルカと話してばかりでいたのに、〈クジラの歌を聴く〉なんてことが、いきなりわかるはずがないじゃない? 彼女はキリーにうまく説明するために、自分が小さかった頃に、自分が世界のことをどう感じていたかを、思い出し始めました。

 そんなこともお構いなしに、キリーは続けて聞きました。

 「〈歌を聴く〉ってどういうこと? 話をすることじゃないの?」

 ああ、やっぱり。違うのよ、ええと。

 彼女は子を持った親なら誰でも感じるとまどいに、ちょっと恥ずかしくなりながら、言葉を探していました。(もちろんこれはお母さんイルカにとっては、同時に誇らしいことでもあったわけですが)

 そしてどうにか考えをまとめると、ゆっくりと話し始めました。

 (……続く)

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