小説を書くような人間になるなんて、思いもよらないことだった。なぜなら僕のまわりには、それを侮蔑する人間の方が遙かに多かったし、今でもそうだからだ。
僕はただ少しの教養の一種としてしか、それに親しんでいなかったのだが、僕の経験に基づけば、それさえもおそらくは世間一般のレベルからは遙かにかけ離れていたはずである。僕にはいくつかの愛読書があった。何度読んでも読み返したくなる本があった。高校生自分には三年間を通して、とある作家の一つか二つの作品しか読んでいなかったほどである。そういった人間のたどり着く顛末としては、これはやはり正しいのかもしれない。ただし自分には「同好の士」や「聡明な先師」などという、ご大層なものとはまったく縁がなかったが。
小説という表現をはなから侮蔑する人間に始終囲まれて育ってきた人間にとって、それが人生の目標にならないのは自明かと思う。あるいは「成功」は、むしろそうした人間の侮蔑を強めるだけとも思えた僕は、いつしか「表現」というものは、おしなべてその人間の「生(Life)」のみと深く結び付いているべきであるという念に強く囚われるようになり、結果としてそれまでの自分と他人との関係の記憶の底めがけて深く沈み込むこととなった。それは今になって思えば、たかだか人間の足の裏と地面との間の隙間を、数万光年もの距離に拡大して見つめ続けるような生活であり、野心やご機嫌取りとはまったく無縁の、しかし何者にも決して成ることのない時間だけが、ただ無闇と過ぎ去っていった。
イルカのことは好きではない。と言うよりも、特に嫌いとも好きともどちらとも感じていない。僕がイルカに関して不愉快に感じているのは、せいぜいマスメディアでの安易で幼稚な取り上げられ方についてだけなのだが、その点に関しては今でもまったく変わっていない。それではなぜそういった人間がイルカの話を書いたのかというと、それが単にもっともよく、現時点での僕と世界との関わりを表現しうる手法と思えたからだ。つまりはごく個人的なエゴイズムに基づいているわけだ。
[6]2 へ続く