最初はごく短くて可愛い話のつもりだった。母親イルカとその子供のイルカの会話を書きつけ始めた時点では、それは至極簡単なようにも思えた。しかししばらくして混獲の描写とそれに伴う母親の死、そして「四角」という言葉が出てきて物語が二部構成に分かれるに至っては、ついには冗談では済まされなくなり、僕はその作品を前にして途方に暮れた。そこにはまさしく、僕という人間の、ちっぽけだけれどもそうとしか言いようのない「業」そのものが、そのまま立ち現れていたからだ。
明らかにこれは当時の僕の力量を超えていた。今でもそうかもしれない。しかし同時に、これを越えなければ人間として次の段階へいけないという思いにも、強く囚われていた僕は、そのまま誰にも相談することなくこの作品の執筆にのめり込むようになった。せめてこれを読んだ読者のうちの何人かが、この主人公の子イルカとこの物語を通して、自らの依って立つ世界を、もう一度その根源のさらに奥から見つめ直す一助にでもなればと願いながら。
この作品を書いている最中、世間では本当にいろいろな出来事が起き、そして通り過ぎていった。でも個人的なことに限って言えば、ほとんど何も起きなかった。ごくごくわずかに給料が増え、そして体重がそれ以上にはるかに増えたぐらいだ。今日も、十年前とほぼ変わらずに揺れ動く窓の外の光景が、それをまさしく一瞬の出来事のように見せている。
人は例によって、いまだにこの作品に僕の人生の告白を見るのだろうか? しかしそれはやはり馬鹿げたことだと言いたい。僕はむしろそうしたやりとりに決着を付けたいとも願って、この作品を書いたのだが、しかし同時にこの作品が、個人的にこの作品に課したいくつかの制約故に、否応無しにそうとも理解できる作品になってしまっている事も確かなのだ。それ故に、おそらく人はやはりこの書に告白を見いだすのだろう。それもまたいいのかもしれない。向きになってそうした見解に異を唱えるのには、僕はもう齢を取りすぎてしまった。
「雑草という名の草は存在しない」とは誰の言葉だったか。偽善と嘲笑に食い荒らされ、いつしか人が、この作品をまるで、わずかばかりの雑草だけが生える空き地のように見つめるようになったとしても、それでもそこに生きているのがどうしようもなく一介の植物であることに変わりがないのと同じように、この作品もまた、ただの「文字の塊」であるが故に、わずかでも何かを誘い続け、そして導き送り出してくれるに違いないのである。
あとはただ、時の流れがすべてを決めるだろう。
Ω三上憲一
[4]1 へ