お母さんイルカのアンナと、その子供のキリーは、いつもの入り江でうとうととしていました。いつもどおり昼のあいだじゅう、ずっと島のまわりを泳ぎ続けたり飛び跳ねたりしてばかりいましたので、二匹ともだいぶ疲れていました。とくにお母さんイルカの方は、子供のキリーにどういうふうにいろんなことを自然に覚えこませるかに気をくばりながら、そのうえさらに自分と合わせて二匹分の食べ物を探したりとかいったことをしなければならなかったのですから、なおのことでした。しばらくすると、子供のキリーはすっかり寝入ってしまったようで、ときどき空気を吸いにすっと水面に浮きあがるようすは、穏やかな月明かりの下ではちょっと不思議に見えました。
でもお母さんイルカは、まだ寝入るわけにはいきませんでした。海には、イルカを襲うシャチやサメのような生き物がたくさんいたからです。さすがに夜になるとサメはやってきませんでしたから、いくらかは安心でしたが、シャチの方は昼だろうと夜だろうとお構いなしに海をうろついていましたから、気を抜くことはできませんでした。でも彼女が怯えているものは、それだけではありませんでした。
これは、彼女がキリーを生んでからしばしば感じるようになったことなのですが、ごく普通の静かで明るい昼のさなかに、ときおり不意にあたりがすっと、まるで海よりも深いところから生まれたかのようなものに包まれるかのように暗くなって、目の前の小さな自分の子供ごとすべてを呑み込みんでいくかのような感じにとらわれることがあったのです。夜になるともちろん、それ以上暗くなることはありませんでしたから、少しは安心でしたが、それでもやはりときどき、その暗いものがキリーに襲いかかってくるような感じに、びくっと飛び起きたりするのでした。そしてそうしたことが起きたあとしばらくは、何かにじっと見つめられているような感じがして、からだが小さくなったように感じてしまうのでした。ですから彼女は、たとえどれだけそのからだが疲れきっていたとしても、どうしても静かに眠ることができなかったのでした。
その〈歌〉が聞こえてきたのは、彼女がまたそういったふうに飛び起きて、すぐそばにいる自分の子供が大丈夫なのを知って安心した時でした。
こんなに浅いところでも聞こえるのだから、きっとだいぶ近くにいるのよね、と彼女は思いました。普通ならこんなに浅いところにいたら、風と波のせいでとぎれとぎれにしか聞こえないものね。
彼女は本当には、もうすぐにでも泳ぎ出していって、あの大きなからだを間近に眺めながら、彼らの歌う〈歌〉の響きにすべてをゆだねてしまいたいところでした。もっと若い頃だったならば、たぶん間違いなくそうしていたことでしょう。でも今の彼女にはキリーがいました。キリーを一匹だけにするわけにはいきませんでしたし、だいいち彼らを探し出すのには、今の二匹は少し疲れすぎていました。ですから彼女は、ただ彼らの〈歌〉を聞くだけにすることにしました。
彼女は〈歌〉に静かに聞き入りながら、ずっとあの大きなからだのことを想い続けていました。そして初めて彼らに出会った頃の、まだまだ小さかった自分と、目の前の自分の子供とを重ね合わせて呟きました。
私とこの子と、いったいどこがどう違うというのだろう? この世界のことで私が知っていることなんて、ほんのわずかなのだし……。だいたい、どうして彼らが〈歌〉を歌うのかさえ、未だにわからないのだもの。
彼らとは言葉が通じませんでした。
でもすぐそばにいて一緒に並んで泳いだり、その大きなからだから聞こえてくるからだの音に自分のからだをゆだねているだけでもとても愉しいことでしたし、何よりも彼らの歌う〈歌〉には、いつも呆然となって、そして無性に嬉しくなってしまうのでした。それは自分たちイルカには到底できないことだったからです。彼女は大きくなるにつれて、たぶんきっとこれは、ただ単にからだが大きいだけではできないことなんだろうな、と想うようになっていましたが、それ以上のことは未だにまったくわかりませんでした。
青白い月が、水の中にいる二匹のからだを、ぼんやりと淡い緑色に照らし出していました。クジラはたった今も世界を震わせていました。すぐそばにいるキリーのからだや、あたりにいくつも転がっているごつごつした岩たちや、海藻にしがみつく貝たちやカニたちも、同じようにその歌に震えていました。彼女には、それをなしとげているのがたった一匹の生き物に過ぎないということが、とても愉快なことに思えました。すぐそばで寝ているキリーのからだの向こうには、たぶん、あの突然まわりの景色を食い破って襲いかかってくる暗闇があるはずでしたが、クジラの歌は、その暗闇さえも同じように震わせているかのようでした。そのうちにまるですべてのものがきゅっとひとつに小さくまとまっていくかのような感じにとらわれた彼女は、小さい頃からしているのと同じ身ぶるいを、ぷるっとしました。
すると、すぐそばで眠っていたキリーが、その身ぶるいの音に気が付いて目を覚ましました。そして、あたりじゅうに響いている、不思議な音の連なりに気が付いて彼女にたずねました。
「ねぇ、あの音はなあに?」
〈歌〉に静かに聴き入っていた彼女は、ちょっとムッとして、さぁこいつどうしてやろうかしら、と思いました。黙って聴かせておいてくれればいいのに……。けれども彼女は思い直して、そしてちょっと考え込んでから言いました。
「あれは音じゃないのよ。〈歌〉なの」
「〈歌〉……って?」キリーはまだ目のさめやらない、ぼんやりしたようすで聞きました。
「私たちよりも、ずっとずっとからだの大きな〈クジラ〉という生き物がいてね、その生き物がいろんな想いを込めて出している音なのよ。さぁ、聴いてごらんなさい」
〈歌〉はさっきから低い方の音を、行ったり来たりしていました。その音は、風にかき混ぜられて複雑にうごめく水のせいで、ときどき大きくなったり小さくなったりしていました。
「何か、こう、変なの……」
キリーは、ちょっと困ったようすで言いました。
それを聞いて彼女は、ああそうだわ、と思いました。ずっと今まで同じイルカと話してばかりでいたのに、〈クジラの歌を聴く〉なんてことが、いきなりわかるはずがないじゃない? 彼女はキリーにうまく説明するために、自分が小さかった頃に、自分が世界のことをどう感じていたかを、思い出し始めました。
そんなこともお構いなしに、キリーは続けて聞きました。
「〈歌を聴く〉ってどういうこと? 話をすることじゃないの?」
ああ、やっぱり。違うのよ、ええと。
彼女は子を持った親なら誰でも感じるとまどいに、ちょっと恥ずかしくなりながら、言葉を探していました。(もちろんこれはお母さんイルカにとっては、同時に誇らしいことでもあったわけですが)
そしてどうにか考えをまとめると、ゆっくりと話し始めました。
「あのね、聴くことは想うことなのよ。
あの歌を歌っている者たちが、それまで見てきたり聞いてきたりしたこととか、そういったことをあの音から想い浮かべることを〈聴く〉と言うのよ。言葉だと思ってはだめなの。低い音は海のことだろうかとか、高い音は空のことなんだろうかとか、低い音から高い音へ変わるところは、海よりも空の方が大きいという意味なんだろうか、とか、そういうふうに考えてはだめなの。その歌を歌っている者が、なぜ今、低い音を出そうと思ったのか、とか、なぜ高い音を続けようと思ったのか、とか、そういう〈想いそのもの〉を自分なりに想像して、何も考えないで、それをからだいっぱいに感じることを言うのね」
そう言うと、彼女は〈歌〉に聴き入り始めました。キリーはお母さんイルカの言ってくれたことが少しよくわかったような気がしたので、あたりじゅうに響いている歌と一緒に、彼女のからだの音を聴くことにしました。イルカには、近くにいる仲間がからだから出す音のほとんどすべてが水を伝って聞こえてきましたから、お母さんイルカの言葉だけではわからないことをからだの音から知ろうとしたのです。
生まれてからずっと、お母さんイルカのそばにいて、からだの音を聴き続けてきたキリーは、このメスイルカのことが大好きでした。すべらかに深く潜ることがちょっと得意なこととか、クラゲがなんとなくすこし嫌いなことだとか、そしてときどき何か暗い思いにとらわれて、遊んでいる最中でももの想いに沈んだりすることとか、からだの音がよく聞こえるだけに身のこなしの下にうごめく数多くの想いのうごめきまでもがよくわかるのでした。ですから、たとえお母さんイルカにきつく叱られたとしても、キリーにはところどころに白いかすり傷のあるそのからだの向こうにある彼女の思いやりに、想いをはせることができました。
もちろん彼女には、自分の想いが、そういったかたちである程度キリーに伝わってしまっていることが、充分すぎるほどにわかっていました。それでも彼女はキリーにすべてをさらけ出していました。そしてそのことにお母さんイルカが何の気後れも感じていないことに、キリーはなんだかときどき、自分がちゃんとした一匹の大人のイルカとして扱ってもらえているような気がして、無性に嬉しくなるのでした。
ときどき、彼女はキリーに自分のからだをさらしてこう言うのでした。「さぁ探ってみなさい、キリー」
そう言われるとキリーは、お母さんイルカのそばによって、そして彼女のからだを頭の先から尾びれの先まで、順々に音を出して探ってみるのでした。イルカは言葉に使う音とは違う別の音を眼と眼のあいだから出して、跳ね返ってくる音の感触から、その物の構造を知ることができるのです。キリーはいろいろと音の強さを変えて何度も目の前の灰色をしたものに音をぶつけてみました。
そうするとキリーにはいつも、跳ね返ってくる音の響きの感触から、その灰色の皮膚のずっと奥に、なにやら少しかたい物があるのが感じられました。それらは、お母さんイルカがからだを動かすごとに、しなったりぶつかったりして、こつこつとかいろいろな小さな音を立てていました。そしてそのまわりのやわらかいところからは、たくさんの何かぎゅっと縮まったりしなったりするような小さな音や、とくとくというたくさんの小さな音がとめどもなく聞こえてきました。そしてその音はお母さんのからだのまん中へ行くにつれて、より大きな音になっていました。お母さんは何よりもまず、たくさんの音そのものだったのです。ときおりキリーには、そういった細かな音すべての連なりに、おおいかぶさるようにお母さんイルカの言葉が聞こえてくるのは、ものすごく不思議なことに思えました。そして思わず、これが僕のお母さんなんだ、と言ってみて、その言葉に自分でびっくりすることがありました。
僕はお母さんが、好きだ。
キリーはそう思うと、彼女のからだに自分のからだを近寄らせて、かすかに聞こえる彼女の音と初めて聞くクジラの歌の両方に聴き入りました。
はたして、それはものすごくはっきりとわかりました。キリーには彼女の嬉しそうなようすがはっきりとわかったのです。歌が高い音になると、からだの音が早く高くなりました。そしてからだがぎゅっと少し縮こまりました。音が低くなると彼女のからだの音もゆっくりとしたものになり、縮こまっていたからだも、同じようにゆっくりとやわらいでいきました。お母さんイルカはその時、間違いなくクジラのからだのまん中にいたのです。そして自分の小さなからだからクジラの大きなからだを、歌を通して無心に探っていました。その時の彼女の想いは、島や空を飛ぶ鳥を見ている時とはまた違った、ずっと深い、穏やかなところにあったのです。キリーは、そのお母さんイルカのようすから、まだ見たことのないクジラの大きなからだを想うことができました。
キリーはさっそくそれをまねてみました。そしてその歌が、まさしく自分のからだから出ているものとして感じることができるように、想いを巡らせてみました。でもなかなかうまくいきません。キリーはちょっとがっかりしました。そしてちょっとふてくされて、またうとうととしだしました。
「キリー、歌はきらい?」彼女は、訪ねました。
「……まだわからないや」
「もしね、本当に歌が好きになりたいのだったらね、会うことは重要だと思うわ。でもね、無理に会ってはだめよ。一番に重要なことは、ただ自分の尾びれだけを信じることなのだわ。自分の尾びれだけを信じて、そしてそれに逆らわずにひたすらに前へと進み続ければ、きっと会えるわ。そしてその時こそ本当に、からだ全体で歌を好きになれるでしょうね」お母さんイルカはそれを完全に正しいと信じているというようすで、静かにゆっくりとしゃべりました。
「お母さんは会ったことがあるの?」キリーは聞いてみました。
「ええ、あるわ」「どんな感じ?」お母さんイルカは少し言葉を探しました。
「かたちは私たちとほとんど同じだわね。でも私たちなんかとは比べものにならないほど、ものすごく大きなからだをしているのよ。そしてとてもなめらかに力強く泳ぐことができて、私たちなんかよりも、もっとずっとずっとはるか深いところまで潜ることができるの。からだから出る音も、ものすごく大きな音でね。一緒にいるだけで、もうものすごくわくわくしたわ。でも、言葉は通じなかったの……」
お母さんイルカは、少しさびしそうに、そう言いました。
「私の出会った、何匹かのイルカたちはね、たぶん、あの歌は言葉ではないだろうって、そう言うのよ。私は未だによくわからないのよ。彼らが仲間同士でいるときには、何か音を出して話をしているように思えるときもあるから、彼らが彼らなりの言葉を持っていることは確かだと思うんだけど、でもそれならあの歌はいったい何なのかしらって思うのよね。そう言うと仲間はみんな黙りこくってしまうのよ」
彼女は少しぼんやりと、そしてさびしさを追い払うように話し続けました。
「ある少し年老いたオスイルカはこう言ったわ。あるいは彼らは、私たちが知ることのできない、何か大きなことを知っているのかも知れない。それ故に彼らはただ自分の無力さを恥じて、それを音にしているのかも知れない……って。でも、私には彼らと私たちのあいだにそんなに違いがあるようにも思えないのよね。大きさは全然違うとはいえ、ほとんど同じかたちをしているわけだし……」
キリーは黙って聞いていました。歌について話す時のお母さんイルカのようすには、いつもと違って、どこかもの悲しい感じがありました。
「でもやっぱり……あの大きなからだとあの身のこなしを思い出すと……」お母さんイルカは、少し黙ってから言いました。「あのイルカの言ったことは正しいのかもって思う時もあるわ。悲しいけど……」
二匹はそのあともずっと、静かに歌を聞き続けていました。でもキリーは、昼のあいだじゅうさんざん泳ぎ回ってくたくたに疲れていたので、しばらくするとすっかり眠ってしまいました。お母さんイルカの方はといえば、そのあともずっと歌を聞き続けていたようで、次の日の彼女はいかにも眠そうでした。その日もいつもどおりに、一緒に島のまわりをあちこち泳ぎ回ったり、飛び跳ねたり食べ物を探しまわったりしていたのですが、彼女の身のこなしは、どうにもぱっとしないものだったのです。
その日の夕方、くたくたになった彼女はキリーに向かってこう言いました。
「ああ、さすがに疲れたわ。まるで口先と尾びれがひっくり返ったみたい。今日は早く入り江に戻って休みましょうね」
それを聞いたキリーは、こう思いました。
やっぱり僕は、お母さんが好きだ。
そして、黙って彼女の胸びれをちょんと口先でつつきました。