携帯小説「イルカのキリー」第1部(1)


 お母さんイルカのアンナと、その子供のキリーは、いつもの入り江でうとうととしていました。いつもどおり昼のあいだじゅう、ずっと島のまわりを泳ぎ続けたり飛び跳ねたりしてばかりいましたので、二匹ともだいぶ疲れていました。とくにお母さんイルカの方は、子供のキリーにどういうふうにいろんなことを自然に覚えこませるかに気をくばりながら、そのうえさらに自分と合わせて二匹分の食べ物を探したりとかいったことをしなければならなかったのですから、なおのことでした。しばらくすると、子供のキリーはすっかり寝入ってしまったようで、ときどき空気を吸いにすっと水面に浮きあがるようすは、穏やかな月明かりの下ではちょっと不思議に見えました。

 でもお母さんイルカは、まだ寝入るわけにはいきませんでした。海には、イルカを襲うシャチやサメのような生き物がたくさんいたからです。さすがに夜になるとサメはやってきませんでしたから、いくらかは安心でしたが、シャチの方は昼だろうと夜だろうとお構いなしに海をうろついていましたから、気を抜くことはできませんでした。でも彼女が怯えているものは、それだけではありませんでした。

 これは、彼女がキリーを生んでからしばしば感じるようになったことなのですが、ごく普通の静かで明るい昼のさなかに、ときおり不意にあたりがすっと、まるで海よりも深いところから生まれたかのようなものに包まれるかのように暗くなって、目の前の小さな自分の子供ごとすべてを呑み込みんでいくかのような感じにとらわれることがあったのです。夜になるともちろん、それ以上暗くなることはありませんでしたから、少しは安心でしたが、それでもやはりときどき、その暗いものがキリーに襲いかかってくるような感じに、びくっと飛び起きたりするのでした。そしてそうしたことが起きたあとしばらくは、何かにじっと見つめられているような感じがして、からだが小さくなったように感じてしまうのでした。ですから彼女は、たとえどれだけそのからだが疲れきっていたとしても、どうしても静かに眠ることができなかったのでした。

 その〈歌〉が聞こえてきたのは、彼女がまたそういったふうに飛び起きて、すぐそばにいる自分の子供が大丈夫なのを知って安心した時でした。

 こんなに浅いところでも聞こえるのだから、きっとだいぶ近くにいるのよね、と彼女は思いました。普通ならこんなに浅いところにいたら、風と波のせいでとぎれとぎれにしか聞こえないものね。

 彼女は本当には、もうすぐにでも泳ぎ出していって、あの大きなからだを間近に眺めながら、彼らの歌う〈歌〉の響きにすべてをゆだねてしまいたいところでした。もっと若い頃だったならば、たぶん間違いなくそうしていたことでしょう。でも今の彼女にはキリーがいました。キリーを一匹だけにするわけにはいきませんでしたし、だいいち彼らを探し出すのには、今の二匹は少し疲れすぎていました。ですから彼女は、ただ彼らの〈歌〉を聞くだけにすることにしました。

 彼女は〈歌〉に静かに聞き入りながら、ずっとあの大きなからだのことを想い続けていました。そして初めて彼らに出会った頃の、まだまだ小さかった自分と、目の前の自分の子供とを重ね合わせて呟きました。

 私とこの子と、いったいどこがどう違うというのだろう? この世界のことで私が知っていることなんて、ほんのわずかなのだし……。だいたい、どうして彼らが〈歌〉を歌うのかさえ、未だにわからないのだもの。

 彼らとは言葉が通じませんでした。

 でもすぐそばにいて一緒に並んで泳いだり、その大きなからだから聞こえてくるからだの音に自分のからだをゆだねているだけでもとても愉しいことでしたし、何よりも彼らの歌う〈歌〉には、いつも呆然となって、そして無性に嬉しくなってしまうのでした。それは自分たちイルカには到底できないことだったからです。彼女は大きくなるにつれて、たぶんきっとこれは、ただ単にからだが大きいだけではできないことなんだろうな、と想うようになっていましたが、それ以上のことは未だにまったくわかりませんでした。


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